五冊目へようこそ。
24.12.11
ひとつ前のゆるやかな続きです。
はっきり言ってしまえば真弓にとって田口くんは存在自体が罪です。
真弓は自分にすら本音を隠して良い子でいようとしてしまうので、「ちゃんと徹底してほしかった」とか「プロ意識が低くてがっかりした」とそれらしく話すでしょうけれど、実際は隠す隠さない以前に天使が生身の人間の男性である現実そのものが苦しいです。
同じファンでも、この感覚はみな異なります。
2.5次元舞台に出演する前からニコラを推している、ちえりちゃんとルリさんは「普通の男の子」っぽい側面を何度も見たことがある。当時はそうだったから。
この二人は意識しなくても本人と作品(表現)を分けて考えている感じ。
もちろん、身内に近い立ち位置となった野菊さんもニコラへの幻想度は低い。自身が男の子の母親であることも、彼へのまなざしに影響している。
>彼は高畠クロエ役に抜擢されるまで、小規模の活動しかしていなかった。
>こんなに注目されたのは初めて。大きな波に押し流されるように求められるがまま応えようとしてクロエちゃんに寄せ、書き言葉も文学的にして、優雅にふるまい、決してそれは、全部が嘘ではなかった。
(三冊目 8月11日の日記より抜粋)
ルリさんは「見せてくれるものがすべて」派です。
これまでの歳月と過去の経験が彼女をそうさせています。昔は上記の真弓に近い考えでした。
溢れんばかりの繊細な少女性を抱えている真弓を目の前にして、
これ以上傷ついてほしくないし否定もしたくない。あなたの気持ちが手に取るように分かる。助けてあげたい。こんな風に生きてみたかったけれど私はここまで純粋にも潔癖にもなりきれなかった。愛おしい。守ってあげたい。
と思いながらも、干渉しすぎないよう適切な距離で見守っています。
この「干渉しすぎない」が具体的にどういうことか、言葉にする試みと共に掘り下げてみます。
私自身が気を付けている振る舞いでもありますから、ここから物語を離れて現実寄りのお話になります。
問題に直面し悩んでいる未成年がいるとしましょう。経験に基づいてアドバイスしてあげたいと思ったとき、
「まったく感謝されなくても手を差し伸べたいのか、この子を救って尊敬されて価値ある存在になりたいのか、どっち?」
と自分に訊ね、前者なら話したいことの1割だけを選んで伝えます。
本当にそれで充分。何もかも言わなくたって、聡明な少女たちはちゃんと自分で歩けます。
「私の価値を認めてほしい」という欲求は誰もが持っており、抗いがたいものです。
それに目をつぶらず自覚的でありたいですし、年下と話すときは一段と注意が必要だと考えています。
なぜなら彼ら彼女らはイエスと言うしかないから。
どうしたって不均衡なんですよ。褒めるしかない、従うしかない、違うなと思っていても口には出せない。
何言ってんだこいつと感じても笑顔を崩さず、ありがとうございました助かりましたと頭を下げるしかない。
それを理解せず、気持ちよくなって「良いお姉さんである私」「尊敬される自分」を実感し自己愛を満たすために他者を使う人間にはなりたくないので、相手が学生だと分かっているときは特に慎重に接します。
今までに出会った先輩方や素敵なお姉さんたちが、そうして私を見守ってくれたから。
共感の言葉に救われながらも、自分で考える余地を残してもらって、そこに丁寧な愛情と信頼を感じて嬉しかった。
いつか「お姉さん」側に立つ順番が回ってきたときは、彼女たちのようになりたいと思って背中を見ていました。
もう少し続くかもしれません。
24.12.5
天使のニコラと田口雄大、どちらが彼の「本当の姿」だと思いますか?
一般的に言えば当然、田口雄大です。
真弓も、田口くん(の一部)を知って天使じゃないんだ全部嘘だったんだとショックを受けていて、私はそんな真弓が大好きです。
が、比較的最近になって、ニコラが本当説もあるなという考えが浮上しました。
それは天使ニコラが彼のなりたい姿だから。
こんなパフォーマンスがしたい、こういう表現を目指したい。その結晶が本当でなかったら何が真実なんだろうと思ってしまった。
選べないものの構成割合が多いデフォルトの存在を「田口くん」だとするならば、「ニコラ」は彼の主体的な選択の結果で、そこには本人の意思しか入っていない。
ニコラをやっている場に田口くんを露呈させてしまったミスがどのくらい罪深いかは、別件なので今は置いておきます。
現実から切り離せない、生来の生身の自分と
こんな形でありたいを体現した、理想の自分
どっちが"本当"だと思いますか?
この感覚を今言葉にしてみて、光を感じたと同時に、物分かりが良くなってしまったような寂しさをおぼえました。
「嘘つき」
とまっすぐに思う硬質で潔癖な少女であり続けたかったのに、確かにそう願っていたはずなのに、それ以外何も許せなかったのにまた大人になってしまった。
自分ではどうしようもない、変えることのできない他者を原因とする心の動揺が昔よりも減りました。確実に生きやすくなりました。
けれどその安寧と引き換えに、すぐ粉々になってしまう薄くて透明な硝子のような感受性を手放してしまったかもしれない。
「最初の本である『少女の国』は特に、今はもう描けない作品だと感じる」といった趣旨のお話を原画展の思い出の中で綴りましたが、『NICOLA』もそうかもしれません。
たとえ、これからもっと、すべてが自分ごとではなくなって、新鮮さも神聖さも苛烈さも切実さも、夢を見たり信仰して踊りしそうな高揚も、崇拝と表地一体の殺意も何もかも全部失っても、真弓が危うくて完璧な少女のバランスを保ったままずっとそこにいてくれる。
いつでも彼女の目を通した少女の国に帰ることができる。彼女と過ごした一年間は私の宝物です。
お読みいただきありがとうございました。
日記帳四冊目はこちら
手記の目次はこちら