>信仰していたひとが、理想と致命的に違っていたり変わってしまったりして、裏切られた気持ちと殺意と絶望が生まれる。
最初の記事で書いた、この文で思い出したことを綴ります。
私はこの感性も、この題材も大好きなのですが、どうやらあまり歓迎されるものではないらしい。そう気がついたのは、以前、とある海外俳優さんのスキャンダルの話題を振られたときでした。
「彼は、美しくノーブルなイメージを売りにしている。ファンはギャル系よりも、夢見がちな文学少女、またはそうだった層。理想の王子様として信仰されている感じ。その印象を丸ごと覆すような、イタくておバカな内容の、女性関係の炎上。」
とのお話でしたので、
ファンの方たちが可哀想。許せない、嘘つき、気持ち悪い、裏切られた……と感じただろうね。彼女たちは小さな世界を大切にしていたのに、突然壊されて二度と戻らない。きっととても悲しかったよね。有名な人だけに罪深いよ。
このように返したら
なにそれ不愉快。それでも愛するのが本当のファン。受け止められない人は彼を傷つけてる。私はそういう人たちとは違う。失敗だってかわいいと思えるし、おバカなところを見てむしろ愛が増した。イメージと違ってショックを受けるのは自分勝手すぎて腹が立つ。
……と、怒られてしまいました。
世間的にはそれが「正しい」のはわかっていましたが、
話せると感じていた相手にすらここまで言われるのか……失敗した。
そう思い、その後しばらくこの感受性に触れそうな話は封印していました。
けれどやっぱり、「ある」んですよ、楠本頼子的な心が。この感性はいけないものだと抑えつけても叫んでいる。(彼女をご存じない方は検索してみてくださいね)
そうだ、彼女のように、いや、もっと過激で潔癖で純粋で思い込みが激しくたっていい。私の思い描く少女とはそういうものだ。理想と違ったら、あのときの美しいあなたのまま殺してしまいたかった!と思うくらいの苛烈さ。その魂を愛している。
それでいいじゃないか。誰が否定しようとも、私が肯定する、以上!
という結論を出し、『少女の心臓』の筆をとり始めたのでした。
そんな少女が好きな、そんな少女だった、そんな少女が心の中に住んでいる、あなたへ。
お読みいただきありがとうございました。
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